沖縄研修旅行Day3
みなさん、こんにちは。高洲店です。
前回の続き「沖縄研修旅行Day2」です。今回が最終日になります。
今回は、かな~り真面目な話になります。
最終日は「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和祈念資料館」、「平和祈念公園」へ。
「平和祈念公園」です。
太平洋線時、1945年に起こった沖縄戦でのことです。
米国軍は日本本土侵攻の拠点として沖縄県を確保するため、そして日本軍は本土進出を極力抑えるべく沖縄で持久戦を行いました。
これが沖縄戦で長期戦となってしまい、戦死者20万人、内沖縄県民が12満員になりました。
日本軍は人員不足にも悩まされ、沖縄県民を根こそぎ戦力動員し、中学生にまで動員させられていました。
そこには「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からも看護要員として動員され、2校の愛称が「ひめゆり」とされていたことから戦後には「ひめゆり学徒隊」と呼ばれました。
「平和祈念公園」にある「平和の広場」と「平和の火」です。
沖縄戦では県内のすべての中等学校・師範学校から生徒が戦場に動員されました。
合わせて約2000人の生徒が沖縄戦で亡くなっています。
3月23日、「ひめゆり」たちは「沖縄陸軍病院」に行きました。
「沖縄陸軍病院」は兵隊のための病院で、壕の中に粗末な二段ベッドが並ぶようなところでした。
生徒たちは看護婦と一緒に患者に世話を行い、休む暇もありません。
特に水くみや死体埋葬は壕の外に出て行かなければならず命がけの仕事でした。
食事もだんだんと少なくなり、ピンポン玉くらいのおにぎりが1日1個だけになりました。
戦闘が激しくなると重傷患者でいっぱいになり、寝ることさえもできません。
生徒たちは青白くやせ細り、高熱におそわれ倒れる者も出ました。
コチラは「平和祈念公園」内にある「刻銘碑」です。
平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で配置され、118基・約20万名。
5月22日、首里の第32軍司令部に米軍が迫り、日本軍は南部への撤退を決定。
5月25日、「沖縄陸軍病院」に撤退命令が出され、戦火のなか南部へ急ぎます。
糸満の伊原に到着後、6つの壕に分かれました。
ベッドも医療器具も薬もないため、病院としては機能を失いました。
「ひめゆり平和祈念資料館」に来ました。
展示室内は写真撮影できないので実際に行ってみてくださいね。
6月中旬、米軍が南部へと迫り陸軍病院の壕も攻撃されていきました。
6月18日、陸軍病院では生徒たちに「解散命令」が出されました。
戦火中にも関わらず、生徒たちは壕を出て身を隠します。
学友を助け、重傷で動けず、砲弾に飛ばされ、手りゅう弾に当たりと次々と死んでしまいました。
「お母さん助けて。お父さん助けて。先生助けて」
捕虜になってはいけない、という教えもあり戦場をさまよいつづけました。
「沖縄陸軍病院」に動員された生徒・教師240名のうち136人が死亡しました。
内117人は6月18日の「解散命令」後で、米軍の包囲網の中に生徒たちを放り出した結果となり、犠牲者を飛躍的に増やしてしまいました。
「ひめゆりの塔」は、「伊原第三外科壕」の場所に設置されています。
ここは南部撤退後に入っていた壕で、「ひめゆり」学徒を含み約100名が隠れていました。
6月19日、米軍の攻撃を受け80名余が亡くなりました。
戦争は残虐です。生きたくても生きられなかった人たちがたくさんいました。
段々と当時のことをお伝えできる方々が減り、このように資料として過去の教訓を学ぶことしかできなくなってきます。
当時のような悲惨な状況にならないために、悲惨な状況を生み出さないために必要なことです。
そして今を平和に生きることができることが幸せなことなのだと、改めて認識できました。
楽しく過ごし、最後は大変勉強になった今回の沖縄研修旅行はこれで終了です。
今度沖縄には社員みんなで来てみたいですね。